目次
絽刺しとは?
「絽刺し」とは、絽の生地目を縦に拾って刺し繍いしていく、日本刺繍の一つです。
主地に三本絽という一番細い生地を用い、使用糸は絽刺し専用の撚糸で、絽目の大きさに合わせて太い糸になっています。
絹地に絹糸を刺すことで生まれる、光沢感と立体感が特徴的です。
絽刺しの歴史
絽の目を経に拾って縫ってゆく「絽刺し」という技術がいつ頃開発されたのかは、はっきりとはわかっていません。
東大寺創建の折に絽刺しの敷物が献納されていたことから、奈良時代には日本に伝来していたようです。
中国では清朝時代の女性の宮廷服の袖口裂などに、絽刺しが盛んに使用されたことが、現存している遺品から伺えます。
絽刺しはその品の良さから江戸時代頃に京都の宮中での手慰みとして流行し、公家の手遊びまたは武家の子女の嗜みとして好まれました。
別名「公家絽刺し」とも言われ、徳川家の女性たちや大名家にも伝わり佐賀錦同様に上流夫人の細工物として好まれました。
絽刺しは、貴婦人たちの憧れの持ち物だったのです。
明治から昭和にかけて・絽刺の流行
明治に入り一時廃れた絽刺しでしたが、大正期に復活し、帯や着物に施され広く一般に親しまれてきました。
大正~昭和時代には庶民にまで普及。絽刺しをあしらった着物や帯、バッグなどを嫁入り道具の中に入れるのが一つのステータスとなるほど憧れの刺繍とされていました。
▲昭和10年代手芸品絽刺しセット
一般庶民が使用していた絽刺しの手芸セット 格式高い壁掛けから、財布などの日用品まで幅広く作られていました。
太平洋戦争時は家庭でも普及し、先の大戦末期までは、旧制女学校の教科にもあるほど。
また、海軍の海上勤務の将兵や遠洋航路の船員達により、この技術はヨーロッパへと伝えられました。
当時、女性・男性問わず広まっていた絽刺しは、海軍の船に乗っている将兵達が絽刺しをし、上陸した土地で広めていったという経緯があります。
戦後・絽刺の衰退
しかし、戦後の混乱期に材料店も職人の多くも廃業し途絶えるに至り、さらに西洋文化の浸透で絽刺しの着物や帯を手掛ける職人は激減。職人によるその技術は途絶えてしまったのです。以降は流通に出ることもなくなり、昭和の終わりになると、皇族やごく一部の上流階級の婦人の趣味として細々と残された状態でした。
公家が関東に移ったことから江戸で絽刺し刺繍が発達した経緯からか、現在、趣味・手芸で絽刺しの活動をされているグループは関東に多いとされています。
絽刺し職人・坪倉鳳祥先生が伝える絽刺しの魅力
一度は途絶えようとしていた職人の絽刺しの技術を現代のきものに復活させたのが、絽刺作家の坪倉鳳祥先生です。
昭和の終わり有力材料店の閉店など厳しい環境の中、素材の研究や帯地の試織などを繰り返しながら独自の工夫も加えて新しい絽刺しとして完成させました。
その後も、新技法を加えた作品を発表して、評価を得ています。
絽刺工芸作家 坪倉鳳祥
つぼくら ほうしょう
34年4月 伊豆蔵福機業店(後に(株)じゅらくに社名変更)入社。帯づくりの修行期間。
52年2月 (株)洛匠 設立。手工芸品の帯づくりと絽刺の復活に向け試作と研究。
60年1月 北村哲郎先生(前文化庁文化財監査官)に認められ序文を授かる
以降、絽刺作家とし東京を中心に活動し、今日に至る。
昭和六十年に北村哲郎先生(前文化庁文化財監査官)に認められ序文を授かり、絽刺し作家として活動をはじめました。
9月に開催されたきもの永見の展示会にて、坪倉先生の絽刺しの作品が展示され、坪倉先生による絽刺しの実演も行われました。
坪倉先生の手によって絽刺工芸帯が出来るまで
1 図案を作る作品のイメージ図を作るところから始まります。
2 イメージの色糸を準備色にもこだわり、茜草の浸透で濃淡を出した糸や、貝紫から染めた糸を使用しています。
3 絽刺用の生地に図案を写す刺す生地は「生絽(きろ)」といい、夏用の透ける和服地を使用します。この生地は薄さだけではなく、針が刺しやすいように糊が強めに付けられているのが特徴の一つです。
4 絽の目に沿って刺していく絽の特徴は、絽目というたくさんの隙間があること。絽刺しはこの絽目を縦に縦にとすくいながら、太めの絹の撚り糸を刺していきます。
しっかりと張りのある生地に絽刺し用の強撚糸を用いて、上から下へと規則的に絽目に糸を通して絵図のように文様を表します。
日本刺繍とは異なり直線に刺していくのが絽刺特有の技法です。
5 絽刺しの出来上がり
絽刺し用の糸は一般的な刺繍糸と違い、引っ掛けて糸が浮いてくるようなことはありません。
6 絽刺に合わせて帯地を切り抜く絽布に指し終わったらその部分を切ります。一般的には帯地などにアップリケをして仕上げますが、坪倉さんは凹凸感を無くすために切り嵌めをします。
7 切り嵌めの裏の仕上げ切嵌めの工程は、切嵌め師の職人、帯地は帯職人とそれぞれの工程のプロがいて、分業制によって作られます。
絽布の切り嵌めができる職人も今は僅か数人と言われています。
8 出来上がり
豊富な色糸による繊細な表現
坪倉さんは日本貝紫と日本茜という材料と絽刺という新しい材料を組み合わせることを模索しました。
平成の吉野ヵ里遺跡の大規模な発掘調査で見つかった絹織物の断片の鑑定で、日本貝紫で染めた糸と、日本茜で染めた糸で織られた布だということが近年分かりました。
また、寛政元年(1789年)の著書「和語私臆抄」によれば
「錦(にしき)は二色(にしき)なり。」
邪馬台国、卑弥呼の以前吉野ヵ里遺跡に錦の絹織物が存在していたとされています。その絹織物には経糸に日本茜染、横糸には貝紫が使われていて、最高位の人物が着用したと思われる絹織物こそ、「倭のにしき」です。
このことから、坪倉さんは日本貝紫と日本茜という染料に興味を持ち、絽刺し用の糸をこの二つの色で染めることを考えました。
日本貝紫はとても稀少な国内の貝を割りパープル腺を取り出して染液を作ります。貝紫の原液は藍と同じ分子構造を持っているとされ、一度酸化発色した紫色は、本藍染と同様に何百年経っても色あせることはありません。
そして人類最古の植物染料の一つと言われる茜。
国内の山野に自生する日本茜を採取したものを使用します。
いま、絽刺作家の坪倉鳳祥先生の手によって「倭のにしき」は「ろざし」として蘇ります
絽刺しの技術を現代に伝える
戦後40年ほど、絽刺しの着物や帯を手掛ける職人は激減し、職人によるその技術は途絶えかけました。
絽刺しの帯や着物は戦争の際消失してしまったものが多く、現存している品はとても貴重です。
坪倉先生は、そのような貴重な当時の現存している帯なども展示しています。
9月に初めて米子で絽刺しの実演をされた坪倉先生。先生が復元、制作した帯とともに、当時の帯や庶民の絽刺し作品の展示もされました。米子の地域では初めて絽刺しの技術がお披露目されました。
現在、絽刺の帯を作成する作家は坪倉氏ただ一人です。絽刺を現代に活かすため、帯や着物に伝統の絽刺しを再び施しました。伝統の技術と、施行で生み出した新しい技術を合わせ、未来への道を繋げたのです。
written by TAKAHASHI
文化学部卒業後、和文化に興味を持ち地元の歴史ある企業・きもの永見で呉服の世界へ。 日々着物のことを学びながら皆様の「分からない」にお答えしていきます。